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コラム

沖縄の旅報告 その1

掲載日:2016.04.22

 『元気な障がい者とヨレヨレの健常者(?)』の沖縄二人旅の報告です。
私たちは今回の旅を始める前に、私の心身の負担にならないようにすることを約束していました。ですから、前半の那覇での4泊は部屋は別々にしました。後半のリゾートホテル2泊はシングルがなかったのでツインにしましたが、有料の入浴介助サービスなどを利用して私への負担を極力減らして旅をしました。
 那覇に着いたその日に、私は疲れて、まずはホテルで一休みです。これまで度々このコラムに登場した『友人のC』こと『千明』に、「行きたかったら一人で行ってきて。」と言うと、彼女は「OK!」と言って電動車いすで初めての沖縄国際通りに探検に出かけていきました。19時に『ねーねーず』のライブを見ながらの夕食の予約をしてあり、それに間に合う時間まで私はホテルの部屋で体を休めました。
 ちなみにお天気は相変わらず『さすが私!』という状況で、初日はもちろん激しい雨でした。千明はずっと昔にディズニーランドで買った真っ赤なミッキーのカッパを頭からかぶって、国際通りをかっ歩(?)していました。「酔っ払いにナンパされた~♪」とか言っていました。
 翌日の2日目も雨風が強く、平和祈念公園ではガイドさんの傘が吹き飛ばされそうな中を案内してもらいました。人はほとんどいませんでした。「この季節にこんな天気は珍しいんですけどね」と言われました。その日宮古島では記録的な豪雨だったそうです。「沖縄のみなさん、ごめんなさい。私のせいです。」
 『平和祈念公園』には、国籍や軍人・民間人の区別なく沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ『平和の礎』が、世界の平和が波となって広がっていくようにとの願いを込めて建てられていました。刻まれた名前の一人一人に人生があったことを、それが無残に断ち切られたことを、改めて感じました。一家全滅で名前がわからなく、「○○の妻」「○○の子」「○○の祖父」などと連なって刻まれている人たちもいました。熊本の地震で、今このコラムを書いている時点で四十数名の方が亡くなったと聞いています。それを聞いてたぶんほとんどの日本人がそれぞれの方たちの人生や周りの人たちの痛みや悲しさを思い、胸を痛めていることと思います。そしてその亡くなった人数が20万人となった時、私たちは亡くなった命やその身近な人たちへの共感力や想像力をフリーズさせてしまうのかもしれません。沖縄戦では20万人もの命が失われたということ、そしてそれは天災ではなく人災だということを、胸に刻んでおきたいと思います。
 また、平和祈念公園には各都道府県や遺族会などの団体の慰霊塔が50基ほど建てられていますが、都道府県以外の団体が建てた慰霊塔は関係者が高齢化して管理費が支払えず管理が難しくなってきているなどの問題が出てきている、とガイドさんから聞きました。沖縄戦で亡くなった方たちの慰霊塔なのですから、最低限のことは国が支援するべきではないかと思いました。
 さらに、沖縄戦で亡くなられた方たちの遺骨約18万柱が収められている国立沖縄戦戦没者墓苑が、改築するとの名目で2年間も手つかずのまま金網のフェンスで覆われたままであることも知りました。せいぜい5平米ほどの小さな場所を整備するのに、なぜ2年間も放置されたままでいるのでしょうか。沖縄戦で亡くなった方たちの遺族や関係者はどんな思いでこの現状を目の当たりにしているでしょう。決して大きな声ではいえないけれど憤りを感じている人たちが少なくないと聞きました。日本という国は、亡くなった人に対しても敬意や尊重の気持ちが希薄な国なのだと感じざるを得ませんでした。
 午後には『ひめゆり平和祈念資料館』にも行きましたが、有名なひめゆり学徒隊以外にも、いくつもの学徒隊の10代の若者たちが多く犠牲になったことも、最後に追い詰められて集団自決をした場所の跡地で改めて知りました。
 いろいろと廻る中で思うところ感じることがあり、翌日はまた体調がイマイチとなり、首里城見学を中止して私はまたホテルでゴロゴロし、千明は元気に一人で探索・見学に那覇の街に繰り出して行きました。
 その3日目の夕方、二人で夕食に出かけようとホテルを出たら、県庁前で辺野古新基地建設反対の集会がまさに始まったところでした。そこへ次々と右翼の街宣車が集まってきて集会を妨害し始めました。口汚くあまりに暴力的な言葉や行為に、私たち二人はただ唖然とその場に立ち尽くすしかありませんでした。言葉ではうまく言い表せないけれど、非常に激しく内側の大切な何かを傷つけられるような体験でした。「これが沖縄の現実なのか」と、身動きすることもできずそれらがすべて終わって人々が動き出すまで、私たちはその場に立ち尽くしていました。
 その後私たちは言葉を発することもできなくて、意味が分からない涙がただ流れてきました。涙が流れるままに国際通りを黙って二人で歩き続けました。沖縄の人たちは日々このような体験をしているんだと思いました。来て体験してみなければわからない、言葉では表現できない辛く衝撃的な体験でした。
 そんな右翼体験をはるかにしのぐ不愉快で衝撃的な体験を、後日することになるとは予想もしていない私たちでした。
 (続きは、また後日に・・・)