カミナリに打たれたような「気づき」と「猛省」

掲載日:2019.05.28


前回、セラピーのトレーニングコースで、ダメージを受けたことを書きました。
それを読んだ人たちに、色々な感情が起きたことを知りました。

「辛い気持ちになった」「なぜか涙が止まらなくなった」「紀代子さんの強さに驚いた」
「フタをして記憶の底に沈めていた自分の体験を思い出した」などなど・・・。

あまり辛い刺激にならないことを、そしてできれば、その「自分に起きた反応」から
ご自分にとって必要なことに「気づき」を得ていただければと願っています。

そして今回は、「例の出来事」のその後について書いてみます。

私自身は、95%くらい回復しました。
(実は私、レジリエンスがかなり高いんです。)
皆さんからいただいた言葉もまた、私を癒し、励ましてくれました。
ご心配いただいたみなさん、ありがとうございました。

「安全が保証されないトレーニングコースからは降りる」という気持ちから、
5月のコースには当然参加しませんでした。

毎月2泊3日で東京に通っていたその3日間がぽっかり空きました。
他の理由でコースに参加できなかったとしたら、
私は残念でたまらない気持ちになったと思います。

でも今回は、全く残念な気持ちを感じませんでした。
いつもトレーニングに費やしていた時間とエネルギーを別なことに使えることを嬉しく感じました。

突然話が変わりますが、私は市内にある豚屋さんから直接豚肉を買っています。
一切宣伝はしていないにもかかわらず、東京や九州にもそこの肉のファンがいます。
私は事前に予約をして毎回2㎏ほど購入し、持ち帰って小分けにして冷凍します。

その豚屋さんの「たい肥」を、毎年農家の方がもらいに来ると聞きました。
化学肥料とは比べ物にならないくらい美味しい作物ができるということです。
その「たい肥」を、私もおすそ分けしてもらうことになりました。

話を戻すと、ぽっかり空いた3日間で、私は畑仕事をすることにしました。
「本を読む」など「静的」なことをしていると、例の出来事のフラッシュバックが起こります。
「これは体を動かすしかない」と思い、
ずっと気になりながら放置していた「猫の額ほどの畑」の作業をすることにしました。

草取りをし、たい肥を運び、畑の土に混ぜ、苗を植え・・・と、やっていると、
辛いところに気持ちが行かず、体を動かすことは気持ちが良かったです。

ところが、ここが「私の悪い癖」で、つい夢中になり過ぎ、やりすぎてしまいます。
豚屋さんからもらった「たい肥」を車に積み込み、帰ってから車から降ろし、
その「たい肥」を畑に運び、土を耕し「たい肥」を撒く、ということをしていたら、
「ギクッ」ときました。

「ぎっくり腰」です。
やっちまいました。
以後、数日間は寝たきり状態です。
寝返りを打つことも辛く、トイレは障害のある友人のアドバイスで付けた「縦の手すり」にすがりながらです。

「充実した3日間」を過ごすつもりが、寝たきりの数日間になってしまいました。

そして、ここからがまた「転んでもただでは起きたくない私」の登場です。
体を動かせず、ただ横たわっていることしかできなくなって、
「気持ちが回復してきた今の自分」から「例の出来事」について考えてみようと思いました。

私はたいていの場合、辛いことや困難な出来事が起きた時、
「私がここから学べることは何だろう?」と考えます。
そこには必ず「成長ポイント」があります。

でも今回は、ただただ「あの人が悪い」「あの人たちのせいで私は傷ついた」
というところにしがみついていました。
それもある程度はしかたがなかったと思います。

でも、そろそろ「ここから何を学べるか?」「私は何に気づくべきか?」に
考えをシフトしなければと思いました。
でも、一人で考えていると、「被害者の私」のところから抜け出すことは難しい。

そこで私は、「こういう時こそ仲間の力を借りよう」と思いました。
札幌のセラピー仲間に話を聴いてもらうことにしました。

友人は私の話を聴いて、ある指摘をしてくれました。
それは、私自身は「例の彼女」に対して「中立の気持ちで接していた」つもりになっていたけれど、
実は「私は彼女のことが嫌いで、その結果としての私の小さな行為が、
今回の彼女の私への行為を引き起こしたとも言える」ということでした。

ガーン!!!
そのことを指摘され、私の体には「プチ稲妻」が走りました。
アニメなどで描かれるあのギザギザのカミナリに体が貫かれた感覚です。

そうだ。。。
「私は悪いところは何もなかった」と思っていたけれど、
実は「私の未熟さが引き起こした今回の出来事だった」とも言えると気づきました。

友人は、「普通の人にはここまでは言わないけれど、
あなたならこれを受け止められるだろうと思った」と、言ってくれました。
この出来事が起きる前は表面的な付き合いしかなかった彼女でしたが、
「今回のことで話を聴いてもらうなら彼女しかいない」という私の直感は正しかった。

それからはもう、「痛い」「痛い」。
「自分が悪かった」なんて気づかずに「相手が悪い」というところにいれば、
こんなに辛い思いはしなくても済んだのに、私は気づいてしまった。

「セラピストとしての私の器が小さすぎたから」、
「人間としての私が未熟だったから」、
「彼女の傷を刺激してしまった」。

私が「もっと大きな器」だったら、「もっと深い愛情の人」だったら、彼女がどうであったとしても、
私は彼女を丸ごと受け止められたかもしれないのに。。。

そしてもしかすると、彼女にとって本当に大事な一歩を踏み出すサポートが、
あの瞬間にできたかもしれないのに。。。
私は小さな自分のことしか考えられなかった。

それからは、身もだえするほどの反省モードです。
こんな自分が悔しい。

「いやいや、同じトレーニングを受けている仲間に、そこまで配慮する必要なんてないよ」
「あなたは十分やったと思うよ」という声も自分の内側から聞こえてきます。

そうかもしれないけれど、そこにとどまっている限り、私はここから成長できない。
私は起きた出来事を通して、成長したい。

だったら、「この気づき」を無かったことにして無傷でいるより、
「気づいてしまった痛み」を十分に感じて、そこから成長したい。
これが「転んでもただでは起きたくない私」。

私はコースから降りるのではなく、この反省を携えてコースに復帰し、
「もっと大きな愛を抱きながら彼女と向き合おう」と思えるようになりました。

私がそんな気づきと決意を抱いた頃に、知らせが届きました。
私が行かなかった5月のコースで、彼女が別の仲間とトラブルを起こし、
彼女は腹を立ててコースを辞めていったというものでした。

想像するに、彼女はこれまでもこうしてトラブルを起こしては
腹を立てて辞めていくということを繰り返してきたのだと思います。

一歩遅かった。
4月の時点で私がちゃんと彼女と向き合えていたら、
彼女が繰り返してきたことをそこで終わりにしてもらうことができたかもしれない。

結果として私は、彼女がその苦しみの中に居続けることを止められなかった。

できたら、どこかでまた彼女と会うチャンスがあればと願います。
その時には私の未熟さを詫び、彼女の人生に本気で向き合わせてもらいたい。

私はもっと器の大きい人間になりたい。
本物の愛情と共にある人間でありたい。
それは私にとって決して簡単なことではないけれど、私はそこを目指して前に進んでいきたい。