沖縄の旅 報告その2

掲載日:2016.05.02


 沖縄4日目は、まず佐喜眞美術館に行きました。普段は美術館に行くことはほとんどない私が、ぜひとも行ってみたいと思ったところです。ここは、普天間にあった先祖代々の土地が戦後米軍基地に接収されたという方が建てた美術館です。日本復帰後に支払われるようになった軍用地使用料を「生活のためには使いたくない」「ここから平和をつくっていきたい」と美術館を建てた佐喜眞さんご本人にも興味がありましたし、そこに展示されている『沖縄戦の図』をぜひとも見てみたいと思っていました。
 行ってみて、その場所にまず驚きました。美術館は普天間基地に食い込むように建っていました。美術館ギリギリに基地と隔てるフェンスが張り巡らされ、その向こうはまさに普天間基地でした。フェンスのこちら側には、沖縄特有のお墓、亀甲墓が前庭に静かにたたずみ私たちを迎えてくれました。
 ケーテ・コルヴィッツの作品なども展示されていましたが、私にとって一番の衝撃は、丸木位里・俊夫妻の描いた『沖縄戦の図』でした。ここでは詳しく述べませんが、その絵から受けたインパクトはたぶん一生私の心に残るものとなるでしょう。あの絵は、これからの私の歩みに何らかの影響を与えることになると感じます。
 一通り展示物を見て、帰りがけに私は受付の女性にいくつかの質問をしました。それはフェンスの向こう側、美術館のすぐ隣にあるお墓のことだったりしたのですが、いろいろ尋ねていると、奥から年配の男性が出てきました。私のそばをうろうろしだして、まるで「俺に聞けよ」とでもいうような雰囲気です。職員の方が、「館長です」と紹介してくれました。佐喜眞道夫さん、その人でした。
 私は尋ねたいことを率直に尋ねていきました。彼は「あまり時間はないけど」と言いながら、いろいろと答えてくれました。一人で聞くのはもったいないので、「友人も一緒に聞いていいですか?」と許可を得て、千明と運転手さんにも声をかけ一緒に話を聞きました。「時間がない」と言った割には、佐喜眞さんは次々といろんな話をしてくれました。彼から抱えきれないほどの宿題を受け取った気分で、美術館を後にしました。
 次に訪ねた場所は、旧海軍司令部壕でした。ここは、介護タクシーの運転手さんに「オススメの場所」を尋ねた時に、教えてもらったところした。日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部が設置された地下壕。重機で掘るのも困難な硬い岩盤を、兵士たちが手掘りで掘ったという壕。壁には鍬やツルハシの跡が残っていました・・・。 ここで感じたことも、ここで感じたことこそを、本当はここに書くべきだと思うのですが、書き始めるとたぶんコラム3ヶ月分くらいの分量になってしまう気がします。そして、非常に微妙なことも含むので、誤解の恐れもあるため、ここに書くことはあきらめます。直接会える人には話せると思います。ひとつだけ書くとしたら、戦争とは本当に愚かなことだということ。愚かな人たちが戦争を始め、押し進め、そして愚かではない人たちが、それに抗えずに無念さを抱えながら傷つき亡くなっていったであろうことを痛感した場所でした。あの場所で感じたことも、生涯私の胸に刻まれることになると思います。訪れたことのない方は、ぜひあの場所に身を置いて感じて来てほしいと思います。
 重い気持ちを引きずりながら、午後は『対馬丸記念館』に行きました。ここは、私は2年前にも来たところでしたが、千明にも知ってほしかったので行程に入れました。疎開した子どもたちの乗った船が撃沈され多くの幼い命が失われたこと、それに加えて、そのことについて決して話してはいけないとかん口令がしかれたという二重の苦しみがあったことを伝えています。

 最後に・・・旧海軍司令部壕で太田実海軍中将が自死の間際に発信した電文の一部:
    沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
   (沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いする。)

 沖縄戦の現場で沖縄の住民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末まで案じていた太田実中将。当時の多くの軍人に、沖縄の人たちを犠牲にすることをいとわない言動が散見された中で、太田司令官の人柄がしのばれる言葉ですが、果たして彼が最後に残した言葉の通りに沖縄の人たちに対して特別な配慮がなされてきたのでしょうか。私には、太田司令官の思いとは逆に、戦後一貫して沖縄の人たちへの配慮のなさ、冷遇が続いているような気がしてなりません。

 今日のところは、この辺で。この続きは、書くかどうかわかりません。今日の部分を書きながら、辛い気持ちがよみがえってきて、書き続けることが辛いです。でも、書かなくてはいけないとも思っています。
 また少し時間をください。