「努力すること」「頑張ること」

掲載日:2021.08.31


前回、メンタリストのDaiGoさんの発言に対して私の気持ちを書いた時に、
「頑張る」とか「努力する」ということに触れました。

あれからいつも頭のどこかに「頑張る」「努力する」というワードがあって離れないので、
今回はそこと向き合ってみることにしました。

私は「頑張る」「努力する」ということに対して、どんな思いや価値観や感覚を持っているのだろう。

まず浮かぶのは、私自身はやはり「努力の人」「頑張ってきた人」だなということ。
だからなのか、基本的に「努力している人」や「頑張っている人」に好感を抱きます。

それは、「努力や頑張っている人」が「偉い」とか「価値がある」ということではなく、
個人的に好きか嫌いかで言うと、頑張らない人よりは頑張っている人の方が
「好感を抱きやすい」ということです。

特にそれを一番感じるのは「仕事」においてです。

少なくとも「仕事」という枠の中で見る限りにおいては、
私は真面目に努力をしている人を好ましいと感じます。

手を抜いたりいい加減にしている人に対しては、
良い気分にはならないし、時に怒りさえ感じます。

だって、その人が手を抜くことでどれだけ多くの人が困ることになるか。
いい加減な仕事の始末を誰かがしなければならなくなり
結果として誰かのストレスになったり、
始末をされず放置されたままであれば、どこかで支障をきたすことになります。

支障をきたすということは、誰かが困るということです。

これは、「努力」や「頑張る」というよりも「誠実に仕事をしているか」ということになるかと思いますが。
誠実に仕事をしていない人は、結局その仕事に対して努力や頑張っていないと私は解釈します。

具体例としてたくさん浮かぶのは、クライアントさんたちの職場環境です。
基本的に私のクライアントさんたちって「誠実に仕事をしている」人たちなんです。
そこで「手抜き」をしている人たちのことを聞くと、個人的には腹が立ちます。
(もちろんセッションで「私の腹立ち」を前面に出すことはしませんが。)

一例として、児童相談所の職員の手抜きの話を聞くとメチャクチャ腹が立ちますが、
似たようなことは医療や教育現場でも、その他の仕事でもいくらでも起きていて、
そこで手抜きの仕事をされることで、対象の人たち(子どもたちや患者さんなど)に
どれほど支障が生じるかと思うと、本当に腹が立ちます。

これはわたしの「仕事観」につながるものかもしれませんが、
「仕事」というものは、「与えられた事柄をただこなす」ことではないと思っています。
「誠実に」しようと思えば、その仕事に「プラスアルファとなる何か」
つまりは「もっと良くなるためには」という努力をしなければならないと思います。

色々な環境の中で私のクライアントさんを始め誠実な人たちが「頑張って」くれているから、
様々な場面でこの社会はかろうじて回っているのだと感じます。
本当に、みなさんありがとう!

話が微妙にずれてしまったような気がします。
「頑張る」「努力する」に話を戻します。

そんなふうに「仕事」においては、誠実に頑張らない人には腹立たしさを感じますが、
一方で、「頑張る気力をそがれてしまった人」や「報われない環境に置かれ続けた人」に
対しての共感も私は持ち合わせています。

私も「頑張っても頑張っても抜け出せない環境」に何年も身を置いていた経験があります。
その頃は、「いつかここから抜け出せる」なんて感じることはできず、
未来に希望を抱くことはできませんでした。

私の場合は、それでも自分をあきらめずに頑張り続けて、
少しずつ道を切り開いていった、まさに「切り開いて」きた感があります。

でも、いつまで続くか見通しもないまま、手ごたえも感じられず、
セクハラやパワハラや不正が当たり前にある環境の中で、
希望を持つことをあきらめ、やる気や前向きに生きる気力を失ってしまったとしても
不思議なことではなかったと思います。

だからと言って「報われていそうな人を傷つけたい」とは思いませんでしたが、
「無差別殺人」を起こしてしまった人のことを私は「他人事」とは思えないのです。

私は、あの時感じていた「虚しさ」や「憤り」や「社会への怒り」のエネルギーを
「自分が頑張ること」に向けてきましたが、
その負のエネルギーを「他人を傷つけること」に向けてしまった人を、
私は単純に非難することができないのです。

ちょっとだけ道が違ったら、「あれは私だったかもしれない」と思うのです。

私はなぜ「あきらめたり」「他人を傷つける」方向ではなく、
「自分が頑張り続ける」方向に進むことができたのでしょうか?

それはたぶん、「育てられた環境」の影響が大きかったと思い当たります。

私は「頑張ることや努力することが良し」とされて育てられたと思います。
「強いられてきた」と言っても過言ではないと思います。

母からは強いられることはありませんでしたが、
「どんなことにも真心を込めてね」とは言われてきました。
それは私の中では良かったと思っています。

父は「強いる人」でした。
「もっとやれ!」「もっと結果を出せ!」「努力が足りない」と脅迫的に言われ続けてきました。

「頑張って頑張って結果が出た」時には、恐ろしい父の機嫌が良くなりました。
それは私にとって「救い」であり、その体験は私の心身に深く刻まれました。

「どんなに理不尽な環境の中でも頑張り続ける」ことは
私には身についていたと言えるでしょう。

「子ども時代に強いられていたことを、大人になってもやり続けてきた」。
私が頑張れたのは、そういうことだと今改めて思います。

「頑張り続ければ良い結果につながる」という、子ども時代に身につけた信念。
それは良くも悪くも、今でも私の中に根強くある信念です。

私とは真逆の「どんなに頑張っても認められない環境」で育った人は、
例えば、どんな場面でも子どもなりに頑張ったことに対して
いつも無関心だったり「ふ~ん」という反応しかもらえなかったとしたら、
良い意味での「頑張る」気力を育てられなかったのだろうと思います。

もちろんすべてが当てはまるとは言えませんが、そのように育てられた人は、
無気力になったり人生をあきらめてしまいがちになるのかもしれません。

クライアントさんたちとセッションをしていてもいつも感じることですが、
育てられ方は大人になっても大きな影響を受けているということです。

かつての私のように「自分が壊れるまで頑張る」人でもなく、
「何事に対しても気力がわかない」人でもない、
バランスの取れた人として育てられる社会になるといいなと思います。

ということで、「頑張ることは素晴らしい」という「信念のしっぽ」をまだ持っている私は、
今は健全に頑張っていて、それができることに幸せを感じています。

他人から評価されることを求めて、頑張ったり努力する人も少なくありません。
かつての私もそういうところがありました。

でも今の私は、他人や社会からの評価を求めることはほぼ無くて、
努力や頑張りの結果、「できる」ようになったり「わかる」ようになることが素直に嬉しいです。

自分の内側に喜びを感じられる。
それが今の私が努力したり頑張る理由でしょうね。

考えてみれば、ホームレスや生活に困窮している人たちを支援している人たちも、
ものすごく「頑張って」いますよね。

支援者の人たちの「頑張り」って、すごいなと感じます。
そのもとにあるエネルギーって、きっと人それぞれあるんだろうなとも思います。
(ここにはまた興味がありますが、今回は深掘りしません。)

ということで、「頑張る」「努力する」についての私の内側にある思いや価値観は、
それが「できる・できない」「する・しない」は「人によって事情がある」ということ、
だから他人が安易に評価できないしすることではないということ。

その上で、私は「頑張っている人・努力している人」に好感が持てるということ。

そして「努力は裏切らない」という「信念のしっぽ」も健在だということに気がつきました。(笑)

同時に、何回も「努力する」「頑張る」を連発すると、
「ちょっと疲れる感覚もあるな」と気づきました。

だから適度に「だら~」や「ぼけ~」っとしてバランスをとっているんですね。

みなさんは、「努力する」「頑張る」ことについて、
どのような感覚や思いや価値観や信念があるのでしょうね?