瞑想?マインドフルネス?

掲載日:2023.01.17


前回少し触れた「ちょっと不思議な体験」について書きます。

年末年始のお休みに入る数日前のことです。
なぜか急に、少し体調がおかしくなりました。
体に力が入らないというか「脱力」という感じです。

何もしたくありません。何もできません。
「え?どうしちゃったんだろう?」
何かを「する」という行為ができなくなりました。

体を起こしていることもしんどくて、
椅子に座っていることさえできなくて、
リビングの床に横たわりました。
「ただ横たわっている」とラクでした。

何もせず、ただ「いる」だけの私。
リビングの床の心地よい冷たさを頬に感じます。
猫の歩く足音が聞こえます。
ボイラーの音に気づきます。
自分が呼吸をしていることに気づきます。

ただ「いる」「存在している」だけの私。
「これって、瞑想?」

やがて「存在しているだけの私」の内側に「幸せな感覚」が満ちてきました。
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「これがマインドフルネス?」

時々クライアントさんに「紀代子さんは瞑想しますか?」
「マインドフルネスって、やったほうがいいですか?」
と聞かれることがあります。

私はどうも瞑想は苦手な感じがするので、
基本、苦手なことはやらない私としては、
「瞑想は気が乗らないのでしていません」といつも答えていました。
「あなたがやって「良い感じ」ならやればいいのでは」と答えます。

パワハラで社員を何人も精神科に通わせているギラギラした経営者が
ビジネスで成果を得ようと「瞑想合宿に参加する」
「社員にマインドフルネスをやらせる」などと聞くと、
「はあ?」と何となくモヤモヤしていました。

それが私は今回、「やろう」としたり何かを手に入れようとしたのではなく、
「自然に」そんな状態になりました。

ただ存在しているだけの私。
なんて気持ちがいいんだろう。

しばらくその気持ちの良い感覚に浸っていると、
不思議なことが起こりました。

「啓示を受ける」って、こんな感じでしょうか?
はっきりとした感覚ではありませんが、
この先の私の道を示された感覚がありました。

その道はけっこう険しい道で、その道を進むのなら覚悟が要ります。
「私にできるだろうか」と恐れが生じます。
「普通に生きていきたい」という逃げ腰の私もいます。

待って、待って。
私は「この先どう生きたらいいですか?」なんて神さまにお尋ねしていないし、
宗教も持っていないし、
今は自分の生き方に迷ったり悩んだりもしていないのに、
何でこのタイミングでこんな啓示(?)を受けるの?

波乱万丈とまでは行かないけれど、けっこういろいろあった私の人生。
もう、この後の人生はのんびりと暮らしたいです。

などと疑問を持ったり逃げ腰になると、気が遠のく感じがします。
示されたその道を進むと思うと、えも言われずの幸せな感覚になります。

その道を進むしかないんだな。
その道を進むことが私の幸せなんだな。
そんなふうに受け入れていきます。

その道を進むことを受け入れたら、静かな満たされ感に包まれました。
しばらくの間、その心地よさに包まれて横たわっていました。

どのくらい横たわっていたのかわかりませんが、
気がつくと日が暮れていました。

そんなふうにその一日は終わりました。

しかし後から「あれは何だったんだろう?」「単に私の妄想だったのかも」と、
自分に起きたことへの懐疑の気持ちが湧き始めました。

すると不思議なことに、その数日後に読んだ本に
あの不思議な体験が「私に起こるべくして起きたことだ」と強く感じるような記述を見ました。

その本は、スピリチュアル系とか宗教の本ではありません。
そのたぐいのこととは全く関係のない本でした。

他の人が読めば単にさらりと受け流すような文章であっても、
それは「私にだけわかる暗号のようなもの」でした。

そして「暗号」は、テレビを観ていても音楽を聴いていても、
メッセージとして私に届きました。

「あの体験は白日夢などではなかった・・・」。
私の中で、これからその道を歩むことは明確となりました。

それを思うと動悸がするような険しい道ですが、
その道を歩んでいる時まぎれもなく私は幸せを感じているでしょう。

そして私がその険しい道を歩んでいることは誰にも知られることはないでしょう。
不思議なほど「誰かに知っていてほしい」という気持ちもありません。
ただ、私がそうすることで「この社会が少しでも良くなることに貢献できる」
その実感だけで十分です。

これは「私」という存在を手放して、「私を生きる」。
そのような感覚です。

ここまで読んできて、「紀代子さん、怪しい世界に入った?」と思いましたか?
それとも「何となくわかる気がする」でしょうか?

どちらでも、かまいません。
他者や社会からどう思われようと、この道を進む私には何の影響もありません。
これは拒絶ではなく、穏やかなエネルギーからの「どうでもかまわない」です。

そして、みなさんに見える私はこれまでと全く変わりはないと思います。

相変わらずドジで、
お金を払って買った品物を忘れてきちゃったり、
ひどい方向音痴で自信を持って逆方向へ行くし、
人の顔と名前が覚えられないし、
お掃除や片付けにはどよ~んとなるし、話は飛ぶし、
まあいろいろありますが、そういう自分を受け入れています。

時と場合によっては「ブラック紀代子」も「グレー紀代子」もスタンバイしています。
「善人」にはなれないと思います。
相変わらずの私のままです。

たぶん、私が変わったとは誰も思わないと思います。

にもかかわらず今回ここにこうしたことを書いたのは、
このコラムを読んでくれている人には一応報告をしておきたかったからです。

最後に付け加えることは、
「険しい道であっても、自己犠牲の道ではない」ということです。
神さまも、私が自己犠牲的に生きることは望んでいないと思います。

私は私の個人としての幸せも大事にしながら、
この社会に生きる人たちの幸せにほんの少しだけれど貢献していきます。

「私自身が幸せ」でありつつ、示されたミッションの道を歩みます。