山上徹也被告の裁判に思うこと
掲載日:2026.01.27
私のような仕事をしている人間としては、
賛否が分かれる具体的な事件や事象に関して意見を述べることには
大きなリスクが伴うことは認識しています。
けれど私は時々、そのリスクを冒してでも自分の意見を述べて
みなさんに問いかけたくなる時があります。
これまでも、例えば沖縄のことや少年が犯した親族殺人事件などで
自分の感想や考えや意見を述べてきました。
それは、多くの人が気が付かなかったり見て見ないふりをしていることに、
目を向けて一緒に考えてほしいという思いがあるからです。
私の書いたものに対して、不快に感じる人もいるでしょう。
それは申し訳ないけれど、それでも時々、
自分に負荷がかかりリスクが増すことを承知で書いてきました。
今回もさまざまな意見や感想をお持ちの方がいるであろう
「山上徹也被告による安倍前総理殺害に関する裁判」について、
ここで私見を述べることにしました。
単に「判決=裁判所が下した最終的な判断」についての良し悪しではなく、
この問題を私たちはこの社会の構成員としてどう受け止めるのか。
そこをもっと一緒に考えてみたいと思います。
私の意見や気持ちが正しいとか正しくないとかではなく、
これを読んで自分はどう思うか感じるか、
そのように自分に問いかけるきっかけとして読んでいただければと思います。
それでは本題に入ります。
私は今回の「無期懲役」という判決に至った検察や裁判所、
更には弁護団に対しても違和感を覚えています。
暴力的に一人の人の命を奪ったという事実、
そして多くの人たちを巻き込む可能性があったのに決行したということについては、
批判されてしかるべきことだと思います。
しかし、その一方で、この判決には
山上被告をはじめとする旧統一教会の被害者たちが
これまでどれほど甚大な被害を被り人生を台無しにされたのかには、
ほとんど配慮がなされていない気がします。
安倍昭恵さんは裁判の中で「突然、夫を失った喪失感は、一生消えません。
被告には、自分のしたことを正面から受け止め、罪を償うよう求めます」と訴えました。
その通りだと思います。
しかし、その一方で、旧統一教会の被害者の中には、
山上被告がそうだったように兄弟を、そしてわが子や親を自死で失った人たちが多く存在します。
安倍昭恵さんが突然夫を失い喪失感が一生消えないと同じように、
旧統一教会の被害者たちが突然家族を失った喪失感も
何ら変わらない深い痛みなのではないでしょうか。
更に言えば、判決文では「被害者には落ち度はなんら見当たらない」とありました。
本当に安倍元総理には「何ら落ち度はなかった」にもかかわらず、
山上被告は裁判長曰く「卑劣で極めて悪質な犯行」を行ったのでしょうか?
安倍元総理は、被害者を多く出した旧統一教会と深い関係があり、
自民党の選挙で旧統一教会から多くの支援を受けてきました。
そのことは、韓国の検察が捜査の過程で発見した
「旧統一教会の幹部が韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁に
教団の行事や日本の政治の動きなどを報告した内部向けの資料」にも明白に記述されています。
資料には安倍元総理に関する記述が約500回もあり、
教団幹部が自民党本部の応接室での面会を含め
安倍元総理に「5,6回会った」と報告していたことが明らかになっています。
安倍元総理は旧統一教会のビデオメッセージにまで登場しています。
そのことは、旧統一教会の正当性や社会的信用を与えることに大きく貢献したのではないでしょうか。
安倍元総理は、被害者を更に生み出すに十分すぎる働きをしたと言えると私は思います。
安倍元総理のような公的影響力を持つ立場にあった人が
旧統一教会に一定の正当性や社会的信用を与える行動を取り、
その結果として多くの被害者が生まれ続けたことに、
本当に一切の責任はなかったと言い切れるのでしょうか。
「(安倍元総理という)被害者に落ち度は一切ない」と言ってしまった時、
旧統一教会の被害者たちの死や痛みや喪失感、絶望感なども
「一切ない」ことにされてしまったようで、
私は胸が痛くなります。
安倍元総理の死は悼まれ、妻の喪失感は理解されても、
旧統一教会の被害者たちの死や遺族の喪失感、
そして人生の基盤を失った人たちの苦しみや絶望は、
一切認められず無いものとされてしまっているように感じます。
政治家の命は重く扱われ、
一方で、名もない被害者たちの命や人生は、
これまでも、そして今回の裁判においても軽く扱われている。
ここに私は不公平・不公正を感じます。
私は山上被告の行為を正当化したいわけではありません。
そして報道を見る限り、山上被告自身も
自分のしたことを正面から受け止め、罪を償う覚悟を持っていると感じます。
私は弁護団が山上被告の「生い立ち」を争点にしてきたことに対しても不信感さえ抱いています。
弁護団が主眼とした彼の「生い立ち」を争点とすれば、
「不遇な生い立ちを抱えながらも犯罪に及ばず生きている者も多くいる」と
検察に言わしめてしまいます。
彼が犯行に及んだのは、「彼の生い立ちが悲惨だったから」が主要因ではなく
「安倍元総理が旧統一教会にお墨付きを与えているために、
これからも被害が拡大していく」ことへの憤りや絶望感が大きかったからだと私は思います。
この点は、私の感じ方なので違っているかもしれませんが、
少なくとも「安倍元総理が旧統一教会に社会的信用を与えることによって被害が拡大していった」
ことにほとんど触れられていないことに対し、
私は「弁護団もグルなのではないか」とさえ不信感を抱きます。
検察も裁判所も弁護団も、
「政治家の罪や責任には極力触れないようにしている」ように私には感じられてしかたがありません。
暴力の最たるものは「殺人」です。
山上被告は、それを犯しました。
それに関しては罪を償うべきことに異論はありません。
しかし、直接的な暴力はなかったとしても、
安倍元総理は間接的に十分に被害を拡大する働きをして
旧統一教会の被害者たちが人生そのものを破壊されることに
手を貸してきたと言っても過言ではない気がします。
多くの人たちの人生を台無しにする一助となった(安倍元総理には)
「何の落ち度もなかった」とする裁判長の言葉を
私は受け止めることはできません。
片方の被害は十分にくみ取り、
もう片方の被害は極めて軽く扱われる。
この不条理に私は憤りを感じます。
配慮されなかった「もう一方の被害」
・人生が台無しにされるほどの被害
・家族を自死で失う喪失感と絶望感
・救済されないまま放置されてきた苦しみ
・社会や政治が長年見過ごしてきた、あるいは助長してきた問題
これらが実在していたのもまた厳然たる事実です。
刑事裁判なのでここまでくみ取ることは難しい側面もあるかと思いますが、
私が感じているのは、この「構造的な無視」への強い憤りです。
安倍元総理と旧統一教会との関係は実際どうだったのか。
それを山上被告がどう認識し、この事件に至ったのか。
裁判の中でそのようなことを丁寧に扱ってきたのでしょうか。
この一連の事件で、山上被告は裁かれ、
旧統一教会も解散命令が出され、裁かれ始めています。
その一方で、とても大きな責任があるはずの政治家だけは、
その問題に触れられず裁かれていません。
「何ら落ち度がない」とさえ結論づけられています。
これでいいのでしょうか。
安倍元総理シンパも、アンチ安倍元総理も、特に何も感じていない人も、
山上被告の行為を生み出したこの社会の問題点を
自分事として考えてみませんか。
山上被告が加害者であることと、
同時に彼が社会構造の被害者であることとは矛盾しないと思います。
「大きな社会問題」が背景にあるにもかかわらず、
今回の判決は「彼個人」に責任を負わせて終わろうとしている。
私はこの裁判を通して、「正義って、公正って、何なんだろう」という問いを強く持ちました。
今回の問題に私たち自身がしっかりと向き合わない限り、
彼にどのような判決が下されたとしても、
同じような悲劇は形を変えて繰り返されると私は思います。


