生きづらさの原因

掲載日:2021.07.06


最近、一定数のクライアントさんに共通の現象が起きています。

体調を崩したり、気分が落ち込んだりしているのです。

話を聞いてみると、みなさん同じことを言います。
「離れて暮らしている母親から、『コロナが落ち着いたら会おう』と言われた」と言うのです。
「デジャヴ?」と思うほど、最近みなさん同じことを訴えるのです。

細かく言うと「会いに行くね」や「帰っておいで」などそれぞれ状況によって多少違いますが、
要は「母親と会わなければならない事態が近づいている」ということです。
そう思っただけで体調を崩したり、とても気分が落ち込んだりしているのです。

これが、前回お伝えした「不適切養育」を受けて育った娘たちの反応です。
つまり、「虐待」とは言い切れないけれど、
微妙にわかりづらい「よろしくない関わり」で育てられた人の反応です。

「母に会う」→「母に会わなければならない」と思うと、
瞬時に体や気分が「不快」と反応してしまうのです。
意識にのぼるより早く、まさに「反応」してしまうのです。

ですから、面白いことに、
「自分がなぜ体調を崩したり気分が落ち込んでいるのか」
「理由がわからない」と言う人もいます。

私から「そのような状態になった直前にどんなことがありましたか?」と聞かれて、
「そう言えば母から連絡がありました」と答えます。

「その時あなたにどのような反応が起きましたか?」と聞かれて初めて、
「体がズーンと重くなりました」「吐き気のような感じがしました」と答えていくうちに、
「あ、そうか、母が原因だったんですね」と、やっと気づく人もいます。

そのくらい自分の不調の原因に気づかず、長い間苦しんできた人もいます。
以前にも書きましたが、明確に「虐待を受けた」なら、
「この苦しみはそのせいだ!」とわかりますが、
「不適切養育」=「よろしくない関わり」をされた人は、
そのことを認識しづらいため、苦しみから抜け出しづらいのです。

それでは、何が、どんなことが、「不適切養育」なでしょうか。

ひと言で言ってしまうと、「その子をそのまま受け止めない」
「その子の存在を肯定しない」ということだと私は思います。

こう言うと「そのまま受け止めるなんて、しつけもしないでそのままにしておいていいのか」
という声も聞こえてきそうです。

「しつけ」という言葉を振りかざして暴力など理不尽なことを正当化する親もいるので、
正直「しつけ」という言葉には私は多少拒否反応があります。

私自身は、本来の正しい意味での「しつけ」ということは、
親が「良い関わり」をしていけば子どもには必要なことは伝えられると思っています。

話がずれていくので、今は「何が『しつけ』で、何が『しつけ』でないのか」という議論は、
いったんおいておきたいと思います。

子どもの心に傷を残し、その後の生きづらさの原因となる関わりとはどんなことを指すのか。
私が思う例を挙げてみます。

・子どもの努力や喜びの気持ちをくじく。
(一生懸命に描いた絵を「そんなの誰でも描ける」と言ったり、
 テレビや動画を見て楽しく真似したダンスを「全然似てない」とけなす、など)
・常に親の価値観を押し付ける、ジャッジする
(「そんな色を選ぶなんてセンス無い」「あなたにはこの色が似あうのよ」
「男の子がピアノなんて」「A大なんて親戚に恥ずかしい、B大に進むべき」など)
・他の兄弟姉妹や親せき・近所の子などと常に比較してダメ出しをする。
・勉強や習い事、スポーツなどを、子どもの気持ちを無視して無理強いする。
・「気が弱すぎる」「運動神経無さすぎ」「ブサイク」「足が短い」など
子どもの性格や能力、容姿などに対して「ダメ出し」の言葉を常にぶつける。
・言葉では否定しないけれど、態度で否定する
(親の好みではない服装をしていた時、付き合う友だちや進路など
親の望むものでない場合に不機嫌になる)
・親が自分のことで精いっぱいで、子どもの言動に無関心。無反応。
 →子どもは「自分はいてもいなくてもどうでもいい存在なのだ」という感覚を
無意識下に積み上げていく。
・(異性の家族からの)体への接触など、子どもがイヤだと感じることをする、放置する。
 (これには、入浴や着替えを覗く、卑猥な言葉を投げかけるなども含まれます。)
・「気に入る行動をとるまで不機嫌が続く」など、子どもを親の気に入るように仕向ける。

このように、子ども時代に不快な刺激をたくさん与えられたり、
頑張ったことや嬉しいことを認めてもらえなかったり、
常に親の要望に応えることを求められ続けていると、
子どもは「自分の感じることや望むことには価値がないのだ」
あげくには「自分は生きている価値がないのだ」と
無意識に感じ続けることになります。

そして、親をはじめとする「他人が何を要求しているか」を
常に察知することに神経をすり減らします。

そして、自分が本当は何者なのか、何が好きでどんなことが喜びなのか
わからなくなっていきます。

イヤなことをイヤだと感じることさえできなくなり、
ただ体や気分を通して「不快感」だけを味わい続けていることになります。

たとえ「イヤだ」と感じることでも、笑顔で受け入れてしまうということもあります。

それでも、親が自分のためにいろいろとしてくれた(例えば美味しい料理を作ってくれた、
ステキな洋服を買ってくれた、習い事に惜しみなく行かせてくれたなど)の場合には、
こんなに自分のためにしてくれた親のことを疎ましく感じたり距離を取りたいと思うことに
子どもは罪悪感を抱き、ますます苦しくなります。
自分自身でも自分を否定するようになります。

それが「生きづらさ」の原因だと私は思っています。

命の危険を感じるような育てられ方や虐待と言われるほどのことではないように見えるけれど、
繰り返し「辛いな」「悲しいな」「理不尽だ」と感じるような体験を重ねていくことで、
あるいは自分のことを肯定的に受け止めてもらえないことが続くと、
子どもの心はその都度傷つき、だんだんと「自分は価値のない人間だ」と感じるようになります。
自己肯定感が低くなります。

常に他人の眼を気にし、心が落ち着くことがないので人間関係にも疲れます。
心を深く探っていくと、その奥底には本人も気づいていない、押し殺した「怒り」があります。
だから時々、感情をコントロールできずに場違いなところで爆発してしまうことがあります。
あるいは、常に被害妄想的に物事をとらえ、物事の悪い面ばかりを見ます。
心が疲れてしまいます。
そんな自分にますます自己嫌悪を抱くことになります。

必要なことは、自分を肯定されること、存在そのものを認められること。
言葉だけでなく、相手の存在からそのようなことが伝わってきてはじめて、
人は「この自分で生きていていいのだ」と感じられるのだと思います。

完璧な人間がいないように、完璧な親もいません。
例に挙げたことは、親なら心当たりがあることがあると思います。

子育てで「しまった!」とか「叱り過ぎた」などと思った体験は誰にでもあると思います。
そう思えた人は、たぶん大丈夫です。

問題なのは、自分に問題があると自覚していない親です。
自覚のない親は、長期にわたって不適切な関わりを続けていきます。
その影響が、子どもの「無意識」に蓄積されていくのです。

無意識ですから、明確に意識にのぼることはなく「生きづらさ」を感じるのです。

私のセッションでは、ご本人が「気づいていること=意識」の、その底にある
「まだ気づいていないこと=無意識に刻まれていること」まで探っていきます。

そのプロセスで、「ああ、そうだったんですね」とか「そうです、そうです」など、
自分不快感の原因に触れて、まさに「腑に落ちる」感覚になることが多いです。

そのような体験が、無意識の奥に溜め込まれていた「不快感」を解放していくことになります。
クライアントさんが徐々に自分を取り戻していくプロセスと言っていいでしょう。

そのようにクライアントさんと関わっていくと、私は改めて強く思います。
「人は、誰の人生も侵害してはいけない」
「人は、誰からも自分の人生を侵害されてはいけない」
「人は、自分の人生を精いっぱい生きることが大切であり、それが責任なのだ」