「サイコパス」と「精神科デイケアに通う人たち」

掲載日:2017.03.21


 連日報道されている森友学園問題。鑑定価格が9億円以上の国有地が1億円ちょっとで森友学園に売却され、「8億円も値引きされたのはなぜ?」という疑問から始まった問題。森友学園が運営していた幼稚園では、今の教育基本法に反する「教育勅語」を園児に暗唱させたり軍歌を歌わせたり、運動会で「安保法制通過してよかったです」などと政治的なことを園児に選手宣誓させていたこともわかりました。その他にもいろいろと教育内容に問題があることが発覚しています。外国人への差別的発言を文書で保護者向けに出していたこと。園児への虐待問題も浮上しています。(ちなみにその一部を紹介すると、平手で園児の頬を殴ったとか蹴ったという他に・・・①トイレは一日3回までに制限され、おもらしした子は「○○ちゃんがおもらしをしました」と副園長(籠池夫人)が放送で流す。②悪いこと?をした時には、マネキンが置いてある電気を消したお仕置き部屋に入れられる。など・・・。そんなことをされたら、私でもトラウマになりそうです。) また、その新設予定の小学校の名誉校長に「教育理念がすばらしい」と言って安倍首相夫人がなる予定だったこと。小学校を開校する計画で出した契約書で、国(約24億)・大阪府(約7億)・運営会社(約15億)と3つの異なる金額を提出し、補助金の不正受給の疑いがあること、などなど次から次へと問題が出てきています。
 森友学園問題で大事なことは、本来であれば認可されるはずもない法人が不思議な形でいくつものハードルを越えて小学校を新設寸前までいった過程に、政治家や国がどう関わっていたかということだと思います。それについては、しっかりと真相を究明してほしいと心から思います。(このコラムを書いている3月21日以降も、次々といろいろな展開が起きてくることが予想されます。)
 でも、ここで私は責任を持って話せない政治的なことは脇に置いて、森友学園の籠池理事長という人にフォーカスして書いてみたいと思います。
 籠池氏は新設の小学校の教育理念に「日本人としての礼節を尊び、愛国心と誇りを育てる」を掲げていました。自分自身も「日本人として真先に正直でなおき心でないといけないというところから、そういう学校を作ろうとしてやってきた」と言っています。しかし、言っていることとは裏腹に、報道されている限りにおいて、彼は自分の都合のいいように次々と嘘を言っているように思えます。自分のやったことに責任を持つことはせず、うまくいかないのは他人のせいにしているようです。彼から罪の意識は全く感じられません。自己中心的で、無責任で、不正を働いたことが明るみになっても平然としていられて、人として当然あると思われる「恥」とか「良心」というものを彼から感じることができなくて、その状態に私は「気持ちが悪い」と感じざるを得ませんでした。
 そんな「気持ちの悪さ」に折り合いをつけてくれたのが、「サイコパス」あるいは「サイコパシー傾向が強い人」という概念です。以下では「サイコパス」として書きますが、決してラベル付けをして人を差別する意図からではありません。あくまでも私の「不快さ」への対処として有効だったことのシェアとして書きます。同じように気持ち悪さを感じている人の助けになればと思って書きます。
 「普通の人」ってどんな特徴があるかと一概に言えないように、「サイコパス」にもいろいろなタイプがあるようです。「サイコパス」としてイメージしやすいのは、猟奇殺人を犯す冷徹な人かもしれません。でも、そんな人ばかりでなく、サイコパスには共通する特徴があるようです。
 経歴を詐称する。過去に語った内容とまるで違うことを平気で主張する。話を盛る。矛盾を指摘されても涼しい顔で言い張る。不正を働いても嘘が暴かれても、まったく恥じるそぶりを見せず堂々としている。それどころか「自分は不当に非難されている被害者である」かのように振る舞いさえする。批判されても折れない・懲りない。などなど。「籠池氏そのもの!」と思いました。「そうか彼はサイコパスなのか」と思ったら、とても納得感がありました。「サイコパス」だからやったことが許されるなんてことは断じてありません。ただ、私の中の「なんでこういうことを平気でできるの?」という強い疑問に、答えをもらった感がありました。
 最近の脳科学では、「サイコパス」はそうでない人と比べて「脳」のある部分の反応が異なることがわかってきたそうです。もちろん、サイコパス以外の人たちも(私も含めて)脳に何らかの特徴があることは同じです。(ちなみに私は、ある事情から海馬に少し損傷か萎縮があるような気がしますし、空間認識を扱う部位もかなり小さいのか機能が低いのか、そのように認識しています。)そういった中で、サイコパスは特に「情動」をつかさどる「偏桃体」の活動が低いそうです。偏桃体と脳の別の部分をつなぐ回路にも多くの人と違いがあるようです。結果として、ルール無視、罪悪感の欠如や他人の気持ちを理解したり思いやったりすることができない、他人を傷つけても後悔も反省もしない、平気でうそをつく、いうことが起こるそうです。
 逆に「サイコパス」は、報酬が目の前にある時にはものすごい集中力を発揮することや、「合理的」「効率的」な判断や行動は得意だそうです。ですから、「犯罪者」というよりは「社会的・経済的に地位が高い人」に「サイコパス」は多いそうです。つまり、政治家や経営者など、「利益を得ること」や「自分が有利に立つこと」そして「効率的・合理的判断」が必要な人たちにとってはむしろ必要な素質と言えるのかもしれません。
 それを知ると、籠池氏とは別のパターンの人たちに抱いていた私の「嫌悪感」というか「吐き気」のようなものも合点がいく気がしました。常々私が「何でこんなふうに考えられるのか理解できない」と感じるのは、人の痛みや苦しみに寄り添うことうをせず冷徹に利益が得られる道を選択する政治家や官僚の発言や振る舞いです。政治家や官僚で本当に国民のために働いてくれている人たちは、もちろんいます。でも、そうでない人たちも確実に存在します。
 粛々と「コスト」や「合理性・効率性」の観点から、震災の被災者や原発事故の被害者、水俣病や薬害や沖縄の人たちへの施策を進めていく人たち。そのことがそこに生きる人たちの生活や人生や人間関係をどれほど傷つけていくかに思いが至らない人たちに、私は憤りを禁じ得ません。効率や合理性を否定するものではありません。国民の税金はできるだけ有効に使うためには、効率や合理性も必要なことです。(そうは言っても、今回の森友問題のように、8億円も(これは氷山の一角だと思いますが)国の財産を不公正に扱うということがあるのですから、それもどうなんだろうと思います。)人の生活や人生は、「合理性や効率」のみで判断できるものではないと思います。回り道のように見えても、効率が悪いように見えても、大事にしていかなければならないことがあると私は思います。
 「なぜそういうことがわからないかな?」といつも不思議に感じていましたが、サイコパシー傾向の強い人たちが政治や行政の中枢に多いと知れば、「利益」や「効率・合理性」を第一として、人の命や人生は二の次という施策が簡単になされることに少しは納得です。だからしかたがないとは言うつもりはないし、私は私なりのやり方でそれに抗っていくつもりですが、「世の中には一定数そういう人がいる」ということは知っていたほうが、自分の気持ちの落ち着き具合を守れるのかもしれません。時には、気づかないうちにそのような人たちから被害やダメージを受けるということから免れることができるかもしれません。

 先日、精神科クリニックのデイケアに通う人たちに混じってプログラムを受ける体験をしました。「サイコパス」には違和感しか抱けない私ですが、デイケアに通う人たちには全く違和感を感じませんでした。むしろそこは、私にとって居心地がよかったと言えるかもしれません。彼らは「サイコパス」とは逆に、「人のことを気にし過ぎたり、尊重し過ぎたり、優しすぎたり、一生懸命過ぎたり、誠実過ぎたり」な人たちが多いです。だからこそ、自分の心が壊れ(かけ)た人たちだと思います。
 「サイコパス」はこの社会で成功をおさめる確率は高いのかもしれません。いわゆる「勝ち組」の人たちかもしれません。そして、精神科クリニックに通う人たちは、「勝ち組」の人たちからみると「負け組」になるのかもしれません。そうだとするなら、私は、人の痛みや苦しみに共感できず合理性で判断して効率よく「勝ち組」になっていく人よりも、不器用に傷ついて「負け組」でいる人たちの仲間として一緒に生きいくほうを選びたいと思います。そしてできれば、そのような人たちが痛みを癒し自分の良さを活かして生きていくことを応援していきたいと思っています。
 それが、お互いを尊重し合い自由で生きやすい活気のある社会を創っていく道だと思っています。合理的でも効率的でもないので時間はかかるかもしれませんが、サイコパスが作る社会とは対極の、人の命や生活を大切にする、人と人とのつながりや生きている喜びを感じ合える社会を創る仲間の一人でありたいと願っています。